承認は蜜の味
私を苦しめていた論文発表がおわった。
結論から言うと大成功だった。質疑応答は完ぺきだったといろいろな人から褒められて私はいま天狗になっている。やばい。だから自分からは絶対学会の話はしないと自分に制約をかけている。でもほんとうにうれしかった。久しぶりに全力で頑張ったという気持ちがあったから成果がでてほんとうによかった。私はやればできるんだなって思えた。
自分を自分で認めることは大切らしい。学会が終わって会場を飛び出し、電車に乗って映画を見に行った。「 脳内ポイズンベリー 」その映画は、夢追いフリーターへなちょこ青年とアラサー女子がドラマチックにおつきあいするけどやっぱりうまくいかなくて別れるっていう映画だった。その映画によると「その人と付き合っている状態の自分のことが好きになれないとダメ」なんだそう。その人が好き、じゃだめで、その人と一緒にいる自分が好き、というのが大切なんだと。果たしてそれは愛なのか?と思っていろいろ考えたんだけどやっぱり恋愛っていうのは自己人格形成のためにしかないのかなってちょっと思った。私は自分の彼氏の本体を愛していると思っていたけど、違うのかもしれない。そうは思いたくないけど映画によるとそうらしい。むずかしい。よくわかんないから考えるのはいったん置いといて、彼氏かわいい!と思う心のままに生きていこうと思う。
「こどものころは生ハムメロンのおいしさがわからなかったけど最近言いたいことはわかるよ・・・くらいには理解を示せるようになった」って彼に言ったら「そういえばこの前、無花果となにかの組み合わせがすごくおいしかったんだけどなんやったっけな・・・・(長考)・・・あかんわすれた なあなんやっけ」といわれて知らねーよってなりました。
ほらかわいい!(伝わらない)
自分を認めることができたのでこの蜜の味を覚えてしまいまたホイホイ論文請け負ってしまいそうな気がしてやばい。わたしがもしそうなっていたら止めてください。つらいから。
ちょっとねむいのでスカスカな文章になりました。おやすみなさい。
とくに訴えたいことはない
自分の気持ち
おしごと
私は病院で働いている。一次救急があるでっかい総合病院。
大けが大病たくさんくる。私はその人たちの治療のために毎日毎日検査をしている。幸運なことに、この病院は検査の人間をとても尊重してくれる。他の病院では医師がやっているような検査を任されている(合法です)。検査した私たちが白と言えば白の方向で治療が進んでいくこともおおい。もちろん複数の検査を合わせて判断してるよ
私は今のところに新卒から丸4年働いている。就職活動はほとんどせず、東海の田舎からなんの準備もせずただスーツを着て薄めの化粧で面接に来た。集団面接で、周りは東大京大出身、それを自信としているひとたちで、最初の自己紹介の学校名をいうとき私はすでに次のエントリーシートのことを考え始めていた。私はドFランだった。勝ち目がない。そしてその集団面接は、なんかヘラヘラして終わった。なんでここを選んだんですか?って聞かれて、京都に小さいころからあこがれてて~とか言った気がする。おわった。帰りに京都土産を駅で買って帰った。
そして、内定がでた。
内定通知が届いたとき、何度も名前を確かめた。就活の苦労を全くしていないのになぜかうれし涙がちょっとこぼれた。これから私は、関西の地で、実家からもっと遠くなるけど、ここで生きていくんだ、少なくとも数年間はそうなるだろうと希望を胸に抱いた。まあ、そのころは国家試験に向けて猛勉強の時期だったから、ワッとなったのは一瞬だったけど。
就職してから面接担当だった今の課長に内定理由を聞いたら「リラックスしてたし柔軟性がありそうだと思ったから」。ヘラヘラしてたのがよかったのかよ
今のところで働けて楽しい。給料はあんまりよくないけどなんせ憧れの京都だし、おおきい病院だからいろいろな症例がみられて勉強にもなるし、あと、いちばん大切なこと、人間関係がとってもいい。みんなで助け合う雰囲気がある。仕事にやりがいや楽しさをみつけるにはこれが一番大事だなと最近思う。仕事は金のためにやってるけど、もし「働かなくてもお金がざくざく入ってくるようにしてあげるから仕事やめなよ」ってアラジンに言われたとしても仕事はやめない気がする。楽しいよ、就活中のみんな。そんなにナーバスにならないでね。
何の話してたっけ
あ そうそう
うちの病院で検査の人が尊重されてるってはなしね
それで、私は今そんなに命に直結する部署にいない。もし私が一つ判断を間違ってもそれをただすシステムがある。しかし今日、私が命じられたことは、そのシステムが機能する暇がないほどギリギリの検査をする部署への参加だった。もちろんシステム自体はある。しかし、検査を2つ実施していたらこの患者は死ぬということ。私がこの手でやるたった一つの検査の結果で、医師が動き、手術室が動き、ICUが動くということ。
私はこの辞令をきいて、泣かなかったけど涙がまつげの先まできた。できるわけがない、自分でいうのもなんだけど私は典型的O型である。おおざっぱ、適当、プリントを半分にきっちり折ったりしない。まずい、ひとを殺す前に早く辞めなきゃと99%思った。1%だけ、わくわくした。仲のいい先輩1人にだけこっそり伝えたら「おめでとう!早いね!」といわれた、これは栄転だって。うそだよ・・・まじでどうしよう。こわいこわいこわい。いまはただとほうに暮れている。
とりあえず今やっている論文が終わったら参考書を買って、勉強しよう。先輩を下から脅かすくらいのびのび成長しよう。やってやる。み、みてろよ・・・(及び腰
男がすきということは
私は男友達が多い。女友達は少ない。
はいビッチ乙~と思ったけどちょっと待ってほしい
待って待って
私は女子から「嫌い」といって離れていかれたことはあんまりない、どっちかというと私から離れていくほうだ。前述の自意識に関連して、ちょっと仲良くなると「あれ、なんか 私だけ親友だ~みたいな感じで浮かれてたらどうしよ 申し訳ない」となってちょっと距離を置いてきた。
その点男友達はいい。もともと距離感が女の子より遠い。まあやれると思われたら一気に距離詰めてくるからそこはアレだけど、そういうのは「友達」としてカウントされないからナシで。さっぱりしているかんじもいい。私が日本酒をのんだり甘いものが苦手だったりエヴァやロボットものや特撮がすきなのも、男とのほうが話が合う要因であり、驚くほど一般女子と話が合わない(一部を除く)。あっコイバナはできる
あとは、男は私の顔に対する判定が甘いからいい。というか美醜の価値観がまるっきり違うから、私のことを普通に扱ってくれてると感じる、友達になるのに見た目がほとんど関与しない。女の子は、見た目判定が厳しい。友達になっちゃったらそりゃ見た目関係ないと思うけど、まず最初、ファーストコンタクトの時にめっちゃ品定めされている、この子の美的感覚に合わなければ切り捨てられる・・・!という被害妄想をしてしまう。
女の子に対してひどい被害妄想を抱きすぎっていうのはわかってますけど、でも、やっぱりかわいい子はかわいい子とつるんでる。美的感覚が一致しそれが表出されていると気が合うことにつながるんだな。
こんなこと言ってるけど、女友達ほしいです。
私の自意識の話をしたい。
自意識とは、外的存在に関する意識と対立し,自我がおのれを感じ,考え,意志し,行為する多様な働きを統一する自己同一的な主体としての意識。
つまりは他者に対しての自己ということか。
私は学童のころから自意識が低く、というか自分の位置が低い、自己肯定ができないという面があった。どうせ私なんかとか私よりあの子のほうがすぐれていると思うことがほとんどだった。外見も中身に対してもそうだった。クラスでブスといわれからかわれてる子も性格悪いからといっていじめられている子も、私から見たら「私よりマシ」だった。
私はいつでも価値観の底辺だった。かといって強く愛されたいとも願わず。 だから私はいじめられないように上手に隙間に入り込み、中学のころは勉強を頑張ってテスト前になると頼られたりして、高校のころは団結力の強い部活を熱心にやり、大学のころは見た目に気を使って、なんとか学生時代を過ごしてきた。
今の彼氏と付き合い始めた当初は「どうして私なんかと」「彼と釣り合わない」などと考えて、彼が私と他の予定がブッキングしてしまったといって先約だから君に会いに来たなどといえば「私なんかよりそっちいったほうがよかったのに」と、半ば怒りのような感情であった。もちろん私は会いたかったんだけど、選んでもらえた嬉しさなんかなかった、ただ申し訳なくおもった。今までの恋人すべてに「私のことは忘れて日常を過ごしてね」という態度をとっていた(今も若干そうだけど)
友人にも、なにかの予定より私を優先されたら(私と遊ぶことで、ほんとはこの時間に存在するはずだった楽しい時間を私に消費させてしまった)と思った。ただ遊ぶだけでもそうだった。
でも最近、他者からこの思考をみたらどう見えるかと考えた。彼氏や友人に失礼なことをしてきたなと感じた。彼らからしてみれば、自分の選択を否定されていることになる。たとえば彼らが「きれいな宝石だ」と思って大事にしているものを「そんなダサい石ころのどこがいいの?」って言ってるようなもんだったのだ。私がとるべき態度は、選ばれた宝石として自信をもって輝くことだった。一生懸命輝いて、また相手のことも私が選んだ宝石として大切に磨くことだった。会えてうれしいとか、会えなくてさみしいとか、もっと発信するべきだった。
これに少しずつ気づいてそれが正しいのかもしれないと思い始めた昨今も、私の価値は低いままだ。輝く努力をしていないから。顔をかわいくするにはどうしたらいい?細くなるためのダイエットはつらい。中身はどうしてだか性格が悪い。ひねくれているし醒めている。これは幼少期の自己否定の強さからきてるかもしれないけど・・・
気づけただけよしとしようじゃないか。私は気づけた。えらいえらい。(無理やりの肯定)
気づけるようになったのはやっぱり彼の存在が大きいんじゃないかと思う。私が引きこもりインドアで見た目が悪くても気にしない。ある休日、夜に彼が来て「一日なにしてた?」と聞かれ、なにもしてない、一歩も家を出ずに寝たり起きたり窓の外を眺めたりしていたと正直に言ったら「最高の休日じゃないですか~休むから休日!サイコー」と言ってくれた。私はてっきりどこか出かけてなにかしろよとあきれられるかと思っていたから拍子抜けしたことを覚えている。すっぴんを見せたくないといったら「すっぴんにも化粧後にもそれぞれのよさがある」と言ったうえですっぴん状態をうまくからかって笑わせてくれたり。彼の、どんな私でもその状態をよしとする態度が、私を育ててくれているのだ。私が宝石ならかれは砥石。ゆるやかな切磋琢磨もあったものだ。いい砥石みっけた。
結局なにがいいたいかまとまらなかった。~なのだ という語尾はあのハムスター野郎を彷彿とさせるからなんか悔しい。